大切なあなたへ
『明日は特別 スペシャルデー♪ 一年一度の チャンス♪』
商店街もとうとうこの季節になってしまいましたね。一年で一番お菓子が売れる日に。
あ、そうそう。自己紹介が遅れてしまいましたね。
皆さん、こんにちわ。天野美汐です。
なんですか？ そこ。今私をおばさん臭いなんて思いませんでしたか？
人と会った時は、まずあいさつからです。それが礼儀と言うものですよ。……って、いったい私は、誰と話をしているんでしょうか……。
それはともかくとして、商店街ではいよいよ明日に迫ったバレンタインデーに向けて、女の子達が最後の仕上げに入っているところです。
……愚民どもめ……。
この日は歴史をさかのぼれば、西暦２６９年に時のローマ皇帝クラウディウス2世が、戦士の士気の低下を恐れて男女の婚姻を禁止した。ところが、このときキリスト教の司祭であったヴァレンティヌスはこの禁令に背いて結婚式を行ったために処刑された、いうなれば殉教の日です。
決して、男子を相手に女子が猪口冷糖を渡すような軽佻浮薄な風習などではありません。
……違いますよ。あげる相手がいないからって、ひがんでいるわけじゃありませんからね。
「あ、美汐〜」
「あら、真琴」
なんという偶然でしょう。商店街で真琴に出会えるなんて。この奇跡を神様に感謝したいところですね。
「美汐も買いに来たの？」
そういって真琴が見せるのは、材料のチョコレートがいっぱい詰まった買い物袋。ああ、この世に神はいないんでしょうか……。
「それでね〜、今日はあゆと一緒にチョコを作るのよぅ」
水瀬家に帰る途中の道すがら、真琴は一生懸命にそう話してくれます。まさか私まで一緒に作るはめになるとは思いませんでしたけれども……。
「美汐は祐一にあげないの？」
そんなキラキラした瞳で聞かれてしまっては、断ろうにも断れないじゃないですか。
「ただいま〜あゆ。買ってきたわよぅ」
「おじゃまします」
「真琴ちゃん、お帰り。天野さん、いらっしゃい」
奥から黄色いヒヨコがプリントされた可愛らしいエプロンをつけたあゆさんが、パタパタと駆け寄ってきます。一時期は車いすの生活で、歩く事も満足にできなかったというのに、こうしてゆっくり走る事が出来るくらいには回復しているようです。
もっとも、まだ長い距離を歩いたりすることはできないみたいなので、買い物とかには出られないみたいですけど。
その代わりに真琴がしっかりとあゆさんのお世話をしているみたいなので、私もうれしい限りですが。
「あゆに言われたとおりに買ってきたわよ」
そういって真琴は、買い物袋の中身をテーブルの上に出します。真琴が買ってきたのはたくさんのクーべルチュールと言う材料用のチョコレートと、ほかほかの肉まん。
「肉まん？」
「あゆが言ったのよ。チョコを買ったお釣りで肉まん買っていいって」
「……ちょうど肉まんの分だけ余るように、お金を渡しておいたんだよ」
得意げに胸を張る真琴を前に、あゆさんがそっと耳元で囁いてくれます。なるほど、相沢さんからも聞いた事がありますが、以前に真琴がお使いのお金を使い込んでしまった教訓が、今ここに活かされているというわけですね。
「でも、あゆ〜……」
テーブルの上に置かれたたくさんのチョコレートを前に、真琴が不安そうな声を出します。
「チョコを手作りするって……一体どうするの？ 真琴、作り方知らないわよ？」
「大丈夫だよ。ボクにまかせて」
そういって、得意げに胸を叩くあゆさん。
「あの……本当に大丈夫なんですか？」
チョコを手作りするなんて、私もやった事がありません。ですが、あゆさんには自信があるようです。
「うん、この間テレビで作っているところを見たから」
かなり不安です……。
「えっと……まずはチョコを融かすんだけど」
「こう？」
手順としては、固形のチョコレートを温めて融かし、型にいれて冷やせばいいだけです。あゆさんの指示で真琴はおっかなびっくり火にかけたお鍋に、チョコを入れていきます。
「あう、融けてきた……」
わたしの見ている前で、固形だったチョコが次第に形を変えていき、ついにはぶすぶすと白い煙が上がるように……。
煙……？
「ま……真琴っ！」
私はあわてて火を消し、お鍋を火からおろします。
「な……なにするのよ、美汐」
「焦げてます」
真琴は口をとがらせますが、有無を言わせずに睨みつけると静かになりました。その脇では、なぜかあゆさんもおびえている様子です。
「大体、どうやってチョコを融かすって書いてありますか？」
「ここに書いてあるけど、真琴むつかしい字なんて読めないわよぅ」
「これって『ゆ』って読むんだよね」
軽いめまいのようなものを感じつつも、あゆさんが指をさしているところには、チョコは湯煎して融かすと書いてあります。
「これは、ゆせんと読むのですよ」
「ゆせんって？」
期待に満ち満ちた二人の視線が、私に注がれます。
「直接火にかけるのではなく、お湯で融かすことですよ」
間違ってはいないはずですが、私にもちょっと自信がありません。
「お湯で融かすのね」
そういうと真琴はぐらぐらとお湯を沸かし、その中にチョコを入れていきます。
「どう？ あゆ」
チョコがすっかり融けたところで、真琴はそれをコップに入れてあゆさんに差し出しました。
「うん、美味しいよ」
ためしに一口飲んでみたあゆさんが、笑顔でそう言います。
「本当だ、ココアみたい」
続いて一口飲んだ真琴が感想をのべます。ええ、それは確かに直球でココアです。
「うぐぅ」
「あう〜」
そんな酷なことはないでしょう……。
製作開始からおよそ三時間。あゆさんと真琴は二人で頑張っているようですが、いまだにチョコレートが出来る気配はありません。
「ここは秋子さんや名雪さんに、お願いしたほうが良いのでは？」
「そうだけど……これ以上秋子さん達に迷惑かけるわけにもいかないし……」
「そうよぅ。敵にお塩を送るわけにはいかないのよ」
微妙に用法が間違っているような気もしますが、あゆさん達は自分達の力でなんとかしたいようです。とはいえ、このキッチンの惨状を見れば、さらに余計な迷惑をかけているようにも思えますが。
実のところ、私もあまり役に立っているとは言えませんけれど。
「ただいま〜」
そんなときに玄関のほうから明るい声が響いてきます。どうやら名雪さんが帰ってきてしまったみたいです。これで名雪さん達に内緒にするというあゆさん達の目論見はご破算になってしまったようです。
「あ、天野さんいらっしゃい。みんなでなに……してるの……？」
制服姿のままキッチンに入ってきた途端に、名雪さんの声はどんどんトーンダウンしていきます。このキッチンの惨状には、流石の名雪さんも言葉を失ってしまっているようですね。
一応名雪さんも今晩の夕食の材料と一緒にチョコレートを買ってきているみたいですが、手にしている買い物袋が小刻みに震えはじめました。
「ごめんなさい、名雪」
真っ先に真琴が謝ります。
「ボク達、一生懸命頑張ったんだよ」
「すみません、私がついていながら」
私も二人に続いて頭を下げます。
「あ、うん。わかってるよ、みんな頑張ったんだもんね」
かなりひきつってはいましたが、それでも笑顔の名雪さんは流石だと思います。
「それじゃあ、わたしがチョコの作り方を教えてあげるから、みんなはちょっと片づけておいてくれるかな？」
そういって名雪さんは着替えにキッチンから出ていきます。流石にこの作業に手間取ってしまうと、お夕飯の時間にも影響してしまいそうです。しかし、こうして改めて見回してみるとひどい有様です。お鍋のうち一つはチョコレートが完全に焦げ付いていて、もう使う事が出来そうにありません。
「急ぐよ、真琴ちゃん」
「わかってるわよぅ」
そんなわけで、名雪さんがお鍋を買いに行っている間、後片付けに奔走する私達でした。
「いい？ 三人とも」
ピンク色のギンガムチェック柄をしたエプロンをつけ、長い髪を赤いリボンをつかって後ろでひとくくりにした名雪さんが、私達一同を睥睨して声を張り上げます。なるほど、これがうわさの陸上部の部長さんモードの名雪さんですか。
「チョコレート作りは、スピードが命なんだよ」
普段ののんびりぽけぽけとしたイメージとは裏腹に、テキパキとした素早い動きで名雪さんはチョコレートを湯煎にかけていきます。大体五十度くらいのお湯が入った大きめのボウルに、細かく刻んだチョコレートが入った小さめのボウルを入れ、お湯の熱でチョコレートを融かしていきます。
「この間に型の準備をするんだよ」
すでに準備してあったのでしょう。名雪さんはシンプルなハート型の型を持ってきました。
「この型の内側に溶かしたバターを塗ってね」
そうすると型から出すときに抜けやすくなるし、表面に光沢がついて見栄えが良くなるのだそうです。私も真琴の横に並んで、あゆさんと一緒にバターを塗っていきます。
「あう？ なにしてるの？」
「テンパリングだよ。こうしないとチョコが美味しくならないんだよ」
名雪さんはまな板のようなものの上に融かしたチョコをお玉に一すくいほどのせて、両手に持ったナイフのようなもので手早くかき混ぜていきます。その手際は見事の一言で、平らに延ばしたり、かき集めたり、さまざまに形を変えるチョコに私達の目は釘付けです。
「さ、後はこれを型にいれて、冷やして固めたら出来上がりだよ」
先程テンパリングしたチョコをボウルの中に残ったチョコと混ぜ合わせ、名雪さんは笑顔でチョコを型に入れていきます。聞くところによると相沢さんは甘いのが苦手だそうですので、少しビターチョコを混ぜて甘さを控えめにしたそうです。
殿方で甘いのが好きと言うという方はあまり聞きませんし、相沢さんの好みに合わせて作るのもいいかもしれませんね。
「真琴ちゃん、思いっきりいくんだって」
「あ……あう……」
お玉いっぱいにすくったチョコを型に入れていき、最後にざっとすり切りにして底を平らにします。
「あとはこれを冷蔵庫で冷やして出来上がりだよ」
名雪さんの笑顔に、私達もほっと安堵の溜息をもらします。一時はどうなる事かと思いましたが、名雪さんのおかげでなんとかなりそうです。
「あの、まだ何かするのですか？」
しかし、名雪さんはまだなにか準備をしています。
「お夕飯の支度だけど、天野さんも食べていくよね？」
どうやら、断れる状況ではないようです。
「……出来てしまいました……」
私が作った初めてのチョコレート。綺麗にラッピングされた小箱には、私の想いがたっぷり詰まっています。これをあなたに渡すとき、あなたはどんな顔をしてくれますか？
「どうしましょう……」
後はこれを相沢さんに渡すだけなのですが……。それを考えると、少し不安になってきてしまいます。
はたして、どういう風に渡したらよいものでしょうか。上級生の教室が並ぶ廊下をてくてくと歩きながら、私はそんな事を考えてしまいます。
とりあえず、ちょっと練習してみましょうか。
「はい。私の気持ちです、相沢さん」
……なんだかこれは、少しラブ的な意味が含まれていませんか？
確かに相沢さんの事は好きですけれども、それはあくまでもお友達と言う意味でありまして、恋人同士のそういうのとは意味合いが異なるものです……。
ダメですね、これは。別の方法を考えましょう。今度は、私にそんな気はないんだとはっきり思わせるために、冷たい感じでやってみましょう。
「別に、相沢さんのために作ったわけじゃありませんから」
……なんだか、前以上にラブ度が高まっているような気がします。これでは噂のツンなんとかみたいじゃないですか。
こうなると、後はもう勢いで渡してしまうしかなさそうです。
「あの、これを受け取ってください」
「え？ オレ？」
私が心を込めて作ったチョコレートを、手渡されてしまった北川さんが驚いた顔で見ています。……って、どうしてこんなところに北川さんがいるんですか。
いえ、確かにここは相沢さんの教室の近くなのですから、北川さんがいても不思議ではありませんけど。でも、私が作ったチョコはあれ一つしかありませんし、一体どうしたら……。
「天野ちゃん」
北川さんが優しく私に呼びかけます。
「オレがこれを受け取るわけにはいかないよ」
そう言って北川さんはチョコを返してくれました。
「天野ちゃんには、渡したい奴がいるんだろ？」
そう言って笑顔で去っていく北川さんはいい人です。
本当に、北川さんはいい人です。
いい人で終わってしまいそうな人ですけれども……。
そんな事を考えているうちに、相沢さんの教室まで来てしまいました。これはもう覚悟を決めるしかありませんね。
静かに目を閉じ、深呼吸。
世界で一番大切な、あなたへ……。