バレンタイン・キッス
「あしたは特別 スペシャルデー♪ 一年一度の チャンス〜♪」
毎年この時期になると商店街でかかっている歌を口ずさみながら、足取りも軽く美坂栞は家路についていた。
スキップスキップ、ランランラン。その様子は見るからに嬉しそうで、手に持った荷物もそれにあわせてゆれている。
とはいえ、栞が浮かれてしまうのも無理のない事だ。なにしろ明日は待ちに待ったスペシャルデー、女の子が男の子に堂々と告白出来る日、バレンタインデーなのだから。
（それにしても、最後の手段ってなんなんでしょうね……）
そんな事を考えながら、いつものように玄関を開ける。
「ただい……えうっ？」
その途端にあふれ出す白い煙に、視界を奪われる栞。しかもその煙は焦げ臭いのに混じって、なにやら甘い香りがする。不審に思った栞は白い闇を掻き分けて、発生源と思しきキッチンへと向かう。
途中何度か壁に頭をぶつけたりしたものの、なんとかキッチンにたどり着いた栞の脳裏に再び疑問が宿る。確かに誰かが料理をしていたと考えられるのだが、その割には換気扇とかを回した様子がない。そうでなければ、家の中にここまで煙が充満するはずがないからだ。
なんとか手探りで換気扇を回すと、次第に視界が開けていく。コンロの上にのった鍋の中身が煙の発生源のようだ。
「なんですか？ これは……」
鍋の中は真っ黒に焦げ付いており、中身は完全に墨になっている。よく火事にならなかったものだと、思わず感心してしまう栞。
そして、徐々に煙が晴れていくにつれて、キッチンの床に放心状態で座り込んでいる香里の姿があらわになる。その姿を見た時に栞は、どうしてこうなったのかを理解した。
「お姉ちゃん？」
軽く肩を揺さぶって声をかけてみるものの、香里の目の焦点は定まっておらず、ゆれにあわせて首がかくかくと動くだけだった。
「しっかりしてください！ お姉ちゃんっ！」
なおも激しく揺さぶると、香里の瞳に光が戻ってくる。
「お姉ちゃんっ！」
「……栞……？」
「そうです。栞です。なにがあったんですか？」
その問いかけに、力ない微笑で答える香里。
「……きないの……」
「は？」
あまりにもか細い香里の声に、思わず訊きかえしてしまう栞。
「チョコレートが、上手く出来ないのよっ！」
そのまま、香里は栞の胸に顔をうずめて泣き出してしまった。
「あー、はいはい。お姉ちゃん、泣かないの」
優しく頭を撫でて慰めつつ、いつもと立場が逆みたいです、と小さく呟く栞であった。
訊くと香里はチョコを手作りしようとしたらしかった。
「それでチョコを溶かそうとしたんだけど、なんでか鍋が焦げ付いちゃうのよね」
「ちゃんと湯煎はしたんですか？」
「なに？ ゆせんって……」
くらっ……。
ちゃかちゃんちゃんちゃんちゃん〜ちゃんちゃん〜……♪（ＢＧＭ『約束』）
夢…
夢を見ている…
「……おりっ！ 大丈夫？ 栞っ！」
「あ、はい。大丈夫です……」
本気で一瞬意識を失いかけてしまった栞。学校の勉強は出来るのに、どうして家事がまともにできないんだろうと真剣に思い悩んでしまう。
「いいですか？ お姉ちゃん。湯煎って言うのはですね……」
栞はお湯を入れた鍋の上に、ボウルを乗せる。
「こうやって、お湯を使ってチョコを溶かすんですよ」
「なるほどね」
何度も感心したようにうなずく香里。鍋で直接チョコを溶かそうとすれば、焦げ付いてしまうのも当然と言えた。
「それでは、私は着替えてきますから。ちゃんとチョコを溶かしておいてくださいね」
「任せて」
この場を離れる事に多少の不安がある栞ではあったが、いくら香里が不器用でもチョコくらいは溶かせるだろう。
（なにを作りましょうか。ここは定番のトリュフでしょうか。それとも、大人の味のガナッシュにしましょうか）
着替え終わってキッチンに向かった栞は、なにを作れば祐一が喜んでくれるかで頭が一杯になっていた。それはきっと、心の中にわだかまっている不安に押しつぶされまいと言う、逃避行動に近い心境だったのだろう。
そして、足取りも軽くキッチンに入った栞が見たものは。
「栞〜……」
ぐらぐらと煮えたぎる湯の中で、完全にココアバターが分離してしまったチョコの成れの果てだった。
ちゃかちゃんちゃんちゃんちゃん〜ちゃんちゃん〜……♪（ＢＧＭ『約束』）
夢…
夢を見ている…
（お願い……。夢なら早く覚めて……）
せつなる願いであったが、起きないから奇跡と言うのであった。
「……一体私は、なにをやってるんでしょうか……」
ここは駅の近くにあるホームセンター。生活雑貨や家具などを取り扱っている店の一角にある調理器具のコーナーで、栞は呆然と呟いた。
結局、チョコは全滅。お鍋もいくつかが使用不能になってしまっていた。
そこで香里はチョコを買いに行き、栞はこうしてお鍋を買いにきたのである。完全にバレンタインとは無縁の買い物をしている気分になる栞であった。
「あれ？ 栞ちゃん」
「名雪さん……」
どうしてこんなところに。と思う栞であったが、名雪が持っているお鍋を見た時にすべてを理解した。
「あゆちゃんと真琴が失敗しちゃってね……」
そう言って微笑む名雪の表情からは、なんとも慈愛に満ちた雰囲気がうかがえる。
（同レベルですか、お姉ちゃん……）
だが、栞の表情は渋い。その話を聞いて、内心では頭を抱えてしまったくらいだ。
その後二人は他愛のないおしゃべりをしながら家路についた。
「それでは、私はこっちですから」
「うん、また明日ね。栞ちゃん」
家に向かって歩き出す栞の背中に向かって、名雪は声をかけた。
「はい？」
栞が振り向くと、笑顔で名雪は口を開いた。
「祐一は甘いのが苦手だから、あまり甘くしないほうが喜んでくれると思うよ」
「名雪さん……」
そのアドバイスに、少しだけ感謝する栞。
（敵に塩を送るなんて。余裕ですね、名雪さん）
（やっぱり、祐一に変なもの食べさせるわけにはいかないしね）
その胸中の想いは異なるものであったが。
「それにしても、不思議ですね」
「なにが？」
無事に材料もそろい、チョコ作りを再開した二人。そんななか、栞はにこやかに話しかけた。
「こうしてお姉ちゃんが、チョコを手作りするなんて事がです」
「ちょっと栞、それどういう意味？」
「だって、いつものお姉ちゃんだったら『こんなのは製菓会社が儲けるための方便よ。あんた達はそれに踊らされてるだけなのよ』って言ってるところじゃないですか」
少なくとも、去年までの香里ならそう言っていたところだろう。
「べ……別にいいじゃないの……」
「あ、ひょっとしてお姉ちゃん。あげたい人が出来た、とか……」
「な……」
すべてを見透かしたかのように微笑む栞と、絶句する香里。見事な対比であった。
「相手は誰ですか？ もしかして、北川さんとか……」
「どうしてあたしが北川くんにあげなくちゃいけないのよ？」
「あ、いえ……。別に……」
真顔で訊きかえされてしまい、絶句する栞。
「えと……。それじゃあ、祐一さんにですか？」
「ば……なにを言い出すのよ、栞ったらっ！」
その途端に香里の頬が朱に染まる。
「あ……あたしが相沢くんにだなんて……。そ……そんなこと、あるわけないじゃないのっ！」
「お姉ちゃん……」
耳まで真っ赤に染めて否定する香里であるが、バレバレである。妹の冷ややかな視線の中で、さらにうろたえまくる香里。
「義理よっ！ 義理なのよ義理。誤解しないでよ？ 本当に本命チョコなんかじゃないんだからねっ！」
「はいはい」
まだなにか言いたげな香里を無視して作業に戻る栞。ある意味、こういうことに関っている場合じゃないからだ。
なにしろまわりはライバルばかり。名雪を筆頭に、佐祐理、舞、あゆ、真琴、美汐は確実に祐一に渡すであろうし、下手をすれば秋子さんもその中に入るかもしれない。そんななかで祐一にチョコをあげたとしても、あまり目立ちはしないだろう。
（やっぱり、最後の手段で……）
とか考えつつ、栞は喜びを抑えきれない様子だ。
熱い想いをチョコにこめて、受け取ってください私の気持ち。
あしたは特別、バレンタイン。