バレンタインパニック♪
二月某日 水瀬家のキッチン
かしょ、かしょ、かしょ……。
ある晴れた日の休日。ここ水瀬家のキッチンからは定期的な音が響いていた。
「おっ砂糖、ひとさじ。恋の味〜♪」
なんとも楽しそうに歌を歌いながら、名雪は丁寧に湯煎したチョコレートに砂糖を加えていく。
「ふたさじ、みさじ、甘い味〜♪」
と歌いつつも、ふたさじめを入れようとした名雪の手がぴたりと止まる。
「……そういえば祐一、甘いのが苦手だから。あまり甘くない方がいいのかな……」
そう考えた名雪の表情は少しだけ暗くなったが、すぐにそれは緩みきった笑顔に変わる。
なにしろもうすぐ女の子の聖なる日。名雪にとってははじめてのバレンタインデーなのだ。
今までにもこういうイベントを経験してきてはいた名雪だったが、それは香里と一緒に市販のチョコを義理で渡した程度なので、こうして誰かのためにチョコを手作りするのははじめてのことだ。
心を込めた手作りのチョコレート。
これを渡した時に祐一はどんな表情をするだろうか。それを考える名雪の表情は、今までにないくらい緩みきっていた。
「あ……でも……」
それまで緩みきっていた名雪の笑顔が、不意に真剣なものに替わる。
七年前の光景が、名雪の脳裏に蘇える。
地面に落ちて、無残な姿となる雪ウサギ。そしてそれをそうしたのは、紛れもなく祐一自身の小さな手だ。
「……大丈夫……だよ……」
暗い表情のまま名雪は、自分に呼びかけるように呟いた。
「今度は……受け取ってくれるよ……」
そうは言うものの、名雪は内心の不安が隠せない。
「なにをやってるんだ、名雪」
「わみゃぁぁぁっ！」
突然背後からかかった声に、名雪は悲鳴を上げた。
「わっ、わっ、わっ、わっ……」
そのまま名雪はキッチンの中を、子犬のように跳ねながら回転した。どうやらよほど気が動転しているらしい。
その名雪の様子を、しばし呆然と見つめている祐一。
「お……男の子は入ってきちゃだめだよ！」
そう言って名雪は祐一をキッチンから追い出そうとする。
「随分いい匂いさせて、なにやってるんだよ」
昔から『男子厨房に入らず』と言うが、こうまであからさまに追い出されそうになると、不思議と面白くない。
「秘密だよ〜」
名雪は祐一をキッチンに入れまいと、入り口付近で必死に抵抗する。祐一もなんとかキッチンに入ろうとしているため、結果として入り口付近で二人は抱き合う形となってしまい、その姿は人目をはばからずにいちゃいちゃするバカップルそのものだ。
「祐一さん」
不意に背後から響いた冷静な声に、祐一の背筋が凍りつく。
「……はい、なんですか？ 秋子さん」
祐一が恐る恐る振り返ると、そこには左手を頬に当てる、いつもの笑顔の秋子さん。
「お買い物をお願いしてもいいですか？」
「もちろん、いいですよ」
その秋子スマイルに、内心安堵する祐一。
「お米を、お願いします」
「……お米……ですか？」
秋子さんの静かな首肯。
「三つ、お願いします」
「三つですか……」
厳しいのか甘いのか良くわからないが、お米を三つという言葉に祐一は顔面蒼白になる。
背中に哀愁が漂いそうな祐一の後姿を眺めつつ、名雪は安堵のため息をついていた。
そして、迎えた二月十四日。女の子の聖なる日、聖バレンタインデー。
この日名雪は、部活の朝練だった。
水瀬家 早朝
「おはようございます、秋子さん。名雪はどうしたんですか？ 部屋にいなかったみたいですけど」
いつものように祐一は名雪を起こそうとしたのだが、なぜか部屋にいなかった。
「おはようございます、祐一さん。あの子は今日部活の朝練で、早くに家をでましたよ」
「なるほどね……」
意外な回答に、祐一は一人納得したように頷いた。
ここ最近は名雪のねぼすけも解消されつつあり、朝の時間にも相当な余裕が出来ていた。
そのはずなのだが、何故か相変わらず祐一達は遅刻寸前で教室に駆け込んでくるのだ。
この事について、水瀬家に同居している月宮あゆはこうコメントしている。
曰く「二人とも仲良くて、朝からいちゃいちゃしてるんだもん。つきあってられないよ、うぐぅ〜……」
そんなわけで祐一は、今日は朝から名雪に会う事が出来ず、少し寂しい思いをしていた。
「そんな事はないぞっ！」
「どうしたんですか？ 祐一さん」
「いえ、なんでもありません……」
「そうですか……」
やがて祐一の目の前には朝食が並べられ、そのとなりには綺麗に包装された小箱が置かれる。
「秋子さん、これは……？」
「私の気持ちですよ。今日はバレンタインデーですからね」
「ああ、なるほど……」
そんなイベントもあったな、と祐一は感慨深げに思いをめぐらせる。
祐一自身、決してもてない方ではないが、今まではとにかく環境が悪かった。
両親の仕事の都合で引越しが多く、そのたびに転校を繰り返していた祐一は親しい友人を作る暇もないまま過ごしてきたのだ。当然祐一はこの手のイベントにはほとんど無縁の生活を送っていたため、秋子さんからの贈り物が実質的に第一号であったりする。
「そんなに気にしなくてもいいですよ、私からのは義理ですから……」
「はあ……」
「でも、チョコレートを手作りするなんて久しぶりでしたから、上手に出来たか不安なんですけど……」
そう言っていたずらっ子のように微笑む秋子。その姿はどう見ても高校生の娘がいるようには見えない。
「おはよう、祐一くん、秋子さん」
「あう〜、おはよう……」
「おはよう、あゆ、真琴」
制服に着替え終わったあゆと真琴が席に着き、朝食がはじまる。
「あ、祐一くん。それ……」
あゆが祐一の手元におかれた小箱を見た。
「ああ、これか？ 秋子さんからもらったバレンタインだ」
「そうなんだ……」
あゆは真琴と目で会話すると、二人同時に綺麗に包装された小箱を取り出した。
「ああああああのっ！ ゆゆゆゆ祐一くんっ！」
「お、おう……」
妙に真剣なあゆの様子に、一瞬気おされる祐一。
「ここここれっ！ ババババレンタインの……」
真っ赤な顔で祐一に小箱を差し出すあゆ。緊張しているせいか、声と手が震えがちだ。
「ああ、ありがとう……」
「よかったぁ……」
祐一が小箱を受け取ると、あゆは安堵したように大きく息を吐いた。
「そんなに緊張する事もないだろうに……」
「そんな事言っても、ボクにとってははじめてのバレンタインなんだよ。緊張しちゃうよ……」
「祐一〜、真琴のも受け取って」
「ああ、サンキュな」
祐一は真琴から差し出された小箱を受け取る。あゆと違って真琴には緊張した様子がないため、祐一は自然に受け取る事が出来た
「あう〜、なによその態度。せっかくの真琴の手作りなのに、祐一ったらちっとも嬉しそうじゃないじゃない」
「全然そんな事はないぞ」
「あう〜……」
真琴はまだなにか言い足りなそうだったが、祐一がバレンタインチョコを受け取ってくれたので、それ以上はなにも言わなかった。
それはともかくとして、秋子さんの手作りはまだいいとしても、祐一はあゆと真琴の手作りチョコを見るのが少々怖いような気がした。
朝の学校
「おはよう、香里」
「おはよう、相沢くん。今日は早いのね、名雪はどうしたの？」
「あいつは今日、朝錬だそうだ……」
「そう……」
いつも通りの挨拶をかわし、自分の左斜め前の席に座る祐一を、香里は真剣な表情で呼びかける。
「あああああ相沢くんっ！」
「お……おうっ！」
祐一が振り向くと、そこには顔を真っ赤にして、綺麗に包装された小箱を差し出す香里がいた。
「いい？ 相沢くん。これは義理よ」
「あ……ああ……」
有無を言わせぬ香里の迫力に、一瞬たじろぐ祐一。
「相沢くんにはいろいろとお世話になったから、その感謝の意味を込めてよ。とにかく義理なんだからね」
やたらと義理を強調する香里。だが、その目は真剣そのもので、とてもじゃないが茶化したり出来ないような迫力がある。
「美坂、オレに……ごはぁっ！」
まとわりつく北川を香里は拳で沈黙させ、それと同時に祐一にチョコを準備しようとしたクラスの女子を視線だけで制す。
「ああ……ありがとう、香里」
「おはよ〜」
祐一が香里から小箱を受け取ったのと同時に、教室に間延びした声が響く。
「おはよう、祐一、香里」
「ああ、おはよう名雪」
「祐一……それ……」
名雪は祐一が手に持っている小箱に目をとめる。
「これか？ 今香里からもらった」
「誤解しないでね、名雪」
一瞬表情が暗くなりかけた名雪に、香里はあわててフォローの声をかける。
「相沢くんに渡したのは義理なの。だから名雪、安心していいわよ」
「あ……うん……」
名雪は何か言いたげだったが、喉元まででかかった言葉をかろうじて飲み込んだ。
「あ……あのね、祐一……」
名雪が顔を赤らめて、かばんから小箱を取り出そうした時だった。
「んあー、せきにつけー」
タイミングよく担任教師の石橋が現われ、朝のホームルームが始まる。
「うにゅぅ〜……」
不思議と妙にタイミングの悪い名雪であった。
休み時間
一時間目が終わったときの休み時間。名雪は勇気を出して祐一に声をかける。
「あ……あのね、祐一……」
「相沢ーっ！ 客だぞーっ！」
だが、丁度タイミングよくクラスの男子の声が響く。
「あ……いいよ、行ってきて……」
「ああ、悪いな、名雪」
教室の入り口には美汐が待っている。どっちを優先しようか祐一は迷ったが、名雪の言葉に従う事にした。
「天野じゃないか、どうした？」
「あ……あのですね、これを……」
かなり緊張した様子で、綺麗に包装された小箱を祐一に差し出す美汐。その姿にはいつものおばさんくさい要素はなく、歳相応の少女のように見えた。
「早く受け取ってください。……恥ずかしい……ですから……」
真っ赤な表情で、消え入るような声を出す美汐。その姿に祐一は、不覚にも可愛いと思ってしまう。
「ああ……。サンキュな、天野」
祐一が小箱を受け取ると、美汐は安堵したように大きく息を吐いた。
「私にとってははじめてのバレンタインですから……。相沢さんに受け取ってもらえてよかったです」
そう言うと美汐は、軽く一礼してその場を去る。
「なんだったの？ 祐一」
「ああ、天野からバレンタインをもらったんだ」
「……そうなんだ……」
にこやかに祐一が見せる小箱に、妙に不機嫌になる名雪。結局それから二人は一言も口をきかないまま、次の授業がはじまってしまう。
その次の休み時間。
「ゆうい……」
「祐一さ〜ん」
話しかけようとした名雪の声をさえぎって、教室内に明るい声が響く。
「相沢ーっ！ 客だぞーっ！」
教室の入り口では、栞が微笑んでいた。
「はいこれ、バレンタインです」
「ああ、サンキュな。栞……」
妙に大きめの箱に、少々困惑する祐一。
ちなみに箱の大きさが愛情の大きさというのは栞の弁であるが。
「ところで祐一さん……」
祐一の耳元でそっと囁く栞。その様子は仲睦まじい恋人同士のようにも見える
「お姉ちゃんからチョコは受け取りましたか？」
「ああ、朝一番に」
「お姉ちゃん『義理だ、義理だ』って言いながら、とても楽しそうにチョコを手作りしてたんですよ」
素直じゃないんですよね〜、と言って、栞は微笑む。
そう言われて祐一が香里の方を見てみると、チョコをしつこくねだる北川に、丁度香里の鉄拳が炸裂するところだ。
こういう表現もなんだが、実はあれも照れ隠しなのではないかと思う祐一であった。
そのまた次の休み時間。
「ゆ……」
「祐一さ〜ん。いらっしゃいますか〜？」
先程から祐一に話しかけようとする名雪だったが、そのたびにタイミングを逃してしまっている。
教室の入り口には、あはは〜、といつも変わらぬ笑顔の佐祐理と、何故か紙袋を持った無表情で能面の舞がいた。
「はい、祐一さん。佐祐理からのバレンタインです。ほ〜ら、舞も」
「祐一、バレンタイン……」
「ありがとう、舞。佐祐理さん」
二人から綺麗に包装された小箱を受け取る祐一。こうして好意を寄せられるのは嬉しいが、チョコを受け取るたびに名雪の視線が冷たくなっていくのを、ひしひしと感じていた。
「お父様以外の人に、こうしてチョコレートを渡すのははじめてなので、佐祐理ちょっとどきどきしちゃってます」
「そうなんですか？」
祐一がそう言うと、佐祐理は明るく微笑んだ。
「舞も張り切って、祐一さんのために手作りしたんですよ。ねえ、舞？」
すかさず佐祐理の額に照れ隠しのチョップを入れる舞。
「きゃあ♪ きゃあ♪」
チョップの連打を受けながらも、どこか楽しそうな佐祐理。
「おや、これは倉田さん」
「久瀬さん」
そんないつものやり取りを繰り広げていると、丁度そこに久瀬が通りかかった。
「ここは二年の教室ですよ。三年生であるあなたがどうしてここに？」
「はい、今日は祐一さんにバレンタインのチョコを渡しに来たんです。ねえ、舞？」
「はちみつくまさん」
舞は鷹揚にうなずいた。
「バレンタインですか……」
「久瀬さんにも用意してありますよ。はい」
そう言って佐祐理は、祐一に渡した箱よりも大きな箱を久瀬に手渡した。
「ベルギー産の最高級チョコレートの詰め合わせです。あ……」
不意に祐一の顔を見上げる佐祐理。その瞳には僅かに涙が光る。
「ごめんなさい。祐一さんには佐祐理なんかの手作りで……」
「いや、佐祐理さん。俺はこれで充分ですよ」
祐一がもらったのは佐祐理の手作り。久瀬がもらったのは既製品。男としてどっちがより嬉しいか、一目瞭然であろう。
「倉田さんの……手作り……。倉田さんの……」
ぶつぶつと呟きながらその場を去る久瀬。その足取りは妙に危ない。
「ところで舞。なんだ？ その袋」
祐一は舞が持っている紙袋が妙に気になっていた。
「これは……」
「川澄せんぱ〜い」
不意に黄色い声があたりに響く。
「これ、受け取ってください」
見ると緑のリボンの女生徒が、舞に綺麗に包装された小箱を差し出していた。
「……ありがとう」
舞がそれを受け取ると、その女生徒は顔を真っ赤にしながら足早に去っていく。
「チョコレートは嫌いじゃないから……」
祐一は舞の紙袋の理由がなんとなくわかった。
こうしてこの日の午前中は、祐一と名雪はほとんど会話らしい会話をする事無く過ぎ去っていった。
放課後の教室
「はああぁぁぁぁ……」
帰りのホームルームも終了した放課後の教室で、祐一は胸の奥から息を搾り出すような深いため息をついていた。
結局昼休みは部長会議とやらで名雪とは顔をあわせておらず、午後の授業は男女別の選択授業だったので、結局今日はまともな会話すらしていないのだ。
今にして思えば、何度か話す機会はあったはずなのに、不思議と今日は妙にタイミングが悪い。
「よおっ！ あ・い・ざ・わ」
「北川か……」
いつも能天気な親友の笑顔が、このときばかりは癪に触る。
「何しけた面してんだよ。今日はモテモテだったくせに」
確かに祐一は今日だけでもかなりの数のチョコレートを受け取っていたが、まだ一番肝心なチョコレートを受け取ってはいない。
そう、祐一はいまだに名雪からチョコレートをもらっていないのだ。
ここで話は、少し前にさかのぼる。
「ところで名雪、相沢くんにもうチョコは渡したの？」
「え？」
ここは女子トイレ。男子禁制のこの場所は、いわば女の子だけの聖域である。
「その様子だと……まだ渡せてないわね。しっかりしなさいよ？ それでなくても名雪は人の七倍は時間がかかるんだから」
「う〜」
名雪は香里を恨みがましく見た。元々の顔の造作がそれほど悪くない名雪であるため、その表情は怖いと言うよりも可愛らしいものであるが。
「はいはい、そんな顔しないの。名雪と違ってあたし達は、相沢くんに学校でしか会えないのよ？」
「それはわかってるけど……」
名雪の表情は暗く沈んだ。
「どうしたの？ 名雪……」
「……不安なんだよ……」
暗い表情で名雪は小さく口を開く。
「祐一が……ちゃんと受け取ってくれるかどうか、不安なんだよ……」
名雪の脳裏には、七年前の光景が浮かび上がっていた。祐一の手により壊されてしまう雪ウサギの光景が頭から離れないため、余計に名雪を不安にさせているのだ。
「名雪が……何を不安に思っているのか、あたしにはわからないけれど……」
香里は名雪の細い両肩に手を置いた。
「相沢くんは、ちゃんと受け取ってくれるわよ。だから、そんな顔しないで」
「うん、ありがとう。香里……」
香里の言葉に、名雪はもうちょっとだけがんばってみようと思った。
選択授業を終えて教室に帰った祐一を待っていたのは、机の上に置かれたたくさんのチョコレートだった。
どうやら直接祐一に渡すのを恥ずかしがった女生徒達が、祐一がいない間に机に置いていったらしい。
「おっ、モテモテだな、相沢」
「あのな、北川……」
「なに騒いでるのよ」
丁度そこに、香里と名雪が現われた。
「見ろよ美坂。この相沢のモテモテ振り……」
祐一の机の上に置かれたチョコレートを見た途端、名雪の笑顔が凍りつく。
「ああその……名雪？」
なんとかフォローをしようとした祐一だったが、丁度そこに石橋がきて帰りのホームルームをはじめたために、フォローしきれなかった。
「わたし、部活だから。じゃあね、祐一」
ホームルームが終わると、名雪は祐一の事を見もしないで、足早に教室から出て行ってしまった。
「はあぁぁぁぁぁぁ……」
再度深いため息をつく祐一。
暗く沈む祐一の表情とは対照的に、北川の表情は明るく輝いていた。
不審に思って訊ねた祐一に北川は笑って右手を開いて見せる。するとそこには一口チョコが握られていた。
「美坂が俺にくれた、世界でたった一つのチョコだぜ。ただの一口チョコかもしれないが、俺にとっては何よりも価値があるものさ」
そう言って笑う北川の表情は妙に輝いて見える。
結局これ以上学校にいてもしょうがないので、祐一は家路に着いた。
水瀬家 夕刻
「……ただいま〜……」
自分の家に入るのに、どうしてこんなにこそこそしないといけないのだろう。そう思いつつ名雪はこそっと玄関に入る。
「名雪っ！」
突然の声に名雪はぴくっと肩を震わせる。見上げるとそこには、祐一が待ち構えていた。
「こんな遅くまでどこ行ってたんだ。遅くなるなら連絡ぐらいいれろよ」
「うん……ごめんね」
「まったく……」
祐一は名雪をそっと抱き寄せた。名雪の体は外気によってかなり冷えていた。
「……心配したんだからな……」
祐一の腕の中の心地よさに、名雪は勇気を分けてもらったような気がした。
「あ……あのね、祐一」
名雪は祐一に紙袋を差し出す。
「祐一、今日はいっぱいもらいすぎちゃって、もういらないのかもしれないけど……」
「全然そんな事はないぞ」
教室での北川の言葉ではないが、名雪からのチョコレートは祐一にとって何よりも価値があるものだ。
「じゃあ、早速いただくとするか……」
祐一は名雪からもらったチョコを口に運ぶが、一口食べた後で祐一は眉をひそめてしまう。
「名雪……これ……」
それは苦いセミブラックチョコレートだった。それは今日モテモテだった祐一に、あてつけるつもりで名雪が買ってきたものだ。
チョコレートに嫉妬してもしょうがない。でも、わかっていてもどうする事も出来ないのが乙女心というものだ。
「……よく、俺の好み知ってたな……」
「ふえ？」
あまりにも予期せぬ祐一の言葉に、名雪は一瞬自分の耳を疑ってしまう。
「今日俺さ、みんなからチョコもらったけど、それ全部ミルクチョコで甘くてさ、正直困ってたんだよ」
その言葉に名雪は、自分で自分を嫌悪してしまう。
「だから、名雪のチョコが一番嬉しいよ。ありがとうな、名雪」
セミブラックチョコレートは名雪の嫉妬。でも、そんなものでも祐一は喜んでくれた。
名雪は嬉しいやら、情けないやらで、大粒の涙を流してしまう。
「なに泣いてるんだよ、お前は……」
「だって、祐一が……」
とにかく、名雪の瞳からは後から後から涙があふれ出す。
突然の名雪の変化にうろたえながらも、祐一はしっかり名雪を抱きしめ、泣き止むまで支え続けていた。
セミブラックは恋の味。
甘さ控えてほろ苦く。
そんなに甘くはないけれど。
少し大人の恋の味。
まったくの余談だが、祐一のために心を込めた手作りチョコは、後日名雪のお腹に収まる事になった。