ささやかなおしおきをあなたに【ロング（没）バージョン】

「お母さん、一緒にお風呂入らない？」

　それは、名雪たちが私の快気祝いをしてくれた夜のことだった。

「どうしたの？　急に？」
「小さいときは、よく一緒に入ってたでしょ？　だから、たまにはいいかなって？　……駄目かな？」
「了承」
「本当？　じゃあ、わたしお風呂の準備してくるね」
　そう言った顔の名雪は、本当に嬉しそうで、私はおもわず目を細めてしまった。


「さすがに、２人で湯船につかると狭いね」
「昔は２人でよく入ったものだけど、名雪も大きくなったって事よね」
「あのころと比べたら、当然だよね」
　昔は、よく２人で湯船に浸かったものだけれども、今は名雪も成長して、２人で湯船に浸かるのは少し窮屈だった。
「わたし、先に身体洗うね」
　名雪もやはり狭いと感じたのか、そういって、湯船から出てスポンジを泡立てはじめた。
　足を軽く伸ばし、お湯のぬくもりを感じながら、身体を洗う名雪を何とはなしにながめる。
　こうして、名雪と一緒に自宅のお風呂にはいるのは、何時以来のことだっただろう？
　そういえば、あの時が最後だったかもしれない。

　７年前、祐一さんがこの街を去ったあの日が。



　あの日、私が警察署を出て、家に戻ってきたのは、確か８時頃だった。
　私は警察署で昨日の事件のこと―――樹から落ちた少女と一緒にいた祐一さんのことについて、いろいろ聞かれたからだ。

　名雪には、７時をすぎても帰ってこなかったら、先にご飯を暖めて食べるように言ってある。
　私が仕事で遅いときはいつもやっている事だから、心配はしていなかった。

　夜の冷たい風に雪が舞う。雪はどんどん勢いを増し、夜の闇を白色に塗り替えていく。
　この地方では別段珍しくもない光景だ。
　この降りようだと今晩だけで、１メートルくらいはつもるかもしれない。
　雪と寒さに負けないようにコートの襟を立てながらそう思った。
　家についた時も、雪は相変わらず流れるように降っていた。
　そのおかげで、頭や肩にはこんもりと雪がつもっていた。
　この辺の地方では、雪の時にあまり傘をささない。私もこっちに住むようになって知ったことだけれども。
　昔、こっちに来たときにその理由を聞いたら、傘は歩くのに邪魔になるし、雪がつもって重くなる。外気温が低いので、服についた雪も払えば簡単に落ちるし、それほど服を濡らさないからだと言っていた。
　最初のうちは傘をさしていた私も、こっちに住むようになってずいぶんと経ち、気がつくとこっちの慣習に従っていた。

　玄関の前で、頭や肩につもった雪を払い落とし、家の中に入ろうと扉を引いた。
　しかし、扉には鍵がかかっていて、開かなかった。
（名雪はもう寝ちゃったのかしら？）
　と、首をひねりながら、コートのポケットから鍵を取り出して中に入った。

「ただいま、名雪」
　そう言いながら家の中に入ったが、家に明かりのついている場所はなく、私を出迎える声もなかった。
　何か嫌な予感がした。
　私はコートも脱がず、そのままリビングに向かい、壁についているスイッチを押した。
　パチリと音がして、電灯がちかちかと瞬き、寒く誰もいないリビングを照らした。
　すぐにキッチンに行き、冷蔵庫をあける。
　冷蔵庫の中には、朝、出がけに用意した今日の夕食が手つかずで残っていた。
　私は乱暴に冷蔵庫のドアを閉め、すぐに２階に駆け上った。
　『なゆきのへや』と書かれたプレートがかかっているドアをあけ、部屋の中央で垂れ下がっているひもを引いた。
　カチリという音と共に、パッと明かりがついた。が、そこに名雪はいなかった。


　名雪がいない。パニックに陥りそうになるのを必死にくい止め、階下におりて、キッチンで水を汲み、その水を一気にあおった。
　冷たい水が体内を駆けめぐり、少し落ち着いた気がした。
　動転しているせいか、ただコップに水を入れるだけだったのに、手にずいぶんと水がかかってしまっていた。
　タオルで手を拭いながら深呼吸をし、次の行動を考えようとするが、何も思いつかなかった。
　どうしようという言葉がぐるぐると回り、時間ばかりが過ぎてしまう。
　私は気を落ち着けなければと、コップにもう一杯水を汲み、それをすぐに飲み干した。


　Trrrrrrrr
　不意に、リビングにおいてある電話が鳴った。
　名雪かもしれない。
　すぐにリビングに飛んでいき、受話器を持ち上げた。
「はい、水瀬です」
　電話の主は、名雪の友達のお母さんだった。
「いつも、名雪がお世話になっております。……いいえ、こちらこそ。……ええ、まだ帰っていないんです。………………駅ですか？……はい、すぐに行ってみます。ありがとうございました」
　今の電話によると、名雪は駅前にいるらしい。
　名雪は家に帰るように言われても、ぶんぶんと首を振り、ここで待ってるからと言って、じっとベンチに座っているそうだ。
　取り合えず、無事が確認できてほっとした。
　でも、この天気で外でじっと座っていると、風邪を引いてしまうかもしれない。なんにせよ、早く迎えに行った方が良いことには違いない。
　帰ってきたら、すぐにお風呂に入れた方がいいだろう。
　お風呂場に行き、風呂釜に火を入れる。帰ってくる頃には、良い塩梅に沸いていることだろう。

　私は、家の戸締まりをしなおして、すぐに駅へと向かった。



　そこに名雪はいた。
　名雪は駅前のベンチに座って、じっと改札口へ向かう道を見つめていた。
　小さい身体に雪をつもらせ、寒さをこらえながら、じっと改札口へ向かう道を見つめていた。
「名雪。帰りましょう」
　名雪はぶんぶんと首を振った。その反動で、名雪に積もっていた雪がとさとさと音を立てて地面に落ちた。
　その雪の量は、本当に長い間、名雪がここでじっと待っていたということを示していた。
「待ってるの。約束したから」
「約束？　誰としたの？」
「祐一。帰る前に、もう一度会うって……」
　私は、その言葉に顔を曇らせた。
　祐一さんはすでに、帰ってしまっていたから。
　友達が目の前で事故にあったショックからか、祐一さんは誰とも口をきこうとしなかった。
　私は事故が起こってからすぐに姉さんに相談し、今朝早く、名雪が寝ている間に祐一さんを連れて帰っていた。
「名雪、祐一さんは今朝早く……」
「来るもん！　約束したもん！」
　私の声を遮るように、名雪が叫んだ。
「名雪……」
「約束したもん。ちゃんと、お別れ言うって。ずっと待ってるって……」
　次第に声が震え小さくなっていった。
「名雪、わかって。祐一さんは、いま」
　言葉が続かなった。どんな風に言っても。名雪を傷つけてしまいそうで。
「名雪。帰りましょう」
　だから、私はこう言う事しかできなかった。
　名雪はしばらくじっとうつむいていたが、やがて立ち上がると、私の手をぎゅっと握った。


　名雪を湯船に入れ、すぐに自分も湯船の中に入る。
　ざーと、お湯が流れる音とともに、湯気が浴室に舞い踊る。
　入浴剤で白く濁ったお湯が、じんわりとぬくもりを伝えてくる。
　その気持ちよさに思わずふぅとため息をついた。一息入れてから、一緒に湯船に浸かっている名雪を見つめる。
　名雪は口をへの字にして、じっと水面を見つめていた。ただその手は離すことなく、ぎゅっと私の手を握っていた。

　それは、名雪が泣くのを我慢するときによく見せる表情だった。
　私は、あいている手で、名雪の頭をなでながら言った。
「名雪。本当に悲しいときは、泣いてもいいのよ」
　名雪はその言葉に、ぶんぶんとお下げで癖のついた髪を揺らしながら言った。
「泣いちゃ駄目なの。祐一が泣いてたから。わたしが泣いたら、祐一は、もっともっと悲しくなっちゃうから。祐一に、元気だしてほしいから。だから……」
　名雪の純粋な想いに、胸が痛くなった。
「名雪。お母さんと名雪の２人だけの秘密にしてあげるから。祐一さんには、内緒にしといてあげるから、ね」
「……祐一に、内緒にしてくれるの？」
「ええ、約束よ」
「……うん」
　名雪の幼い虚勢はここまでだった。
　頷いたと思ったら、私にしがみついて、生まれたての赤ん坊のように、わんわんと泣いた。
「名雪、祐一さんを許してあげてね。祐一さんはすごくつらいことがあったの。
だから、今はそっとしておいてあげて。祐一さんがそのつらいことを乗り越えたら、きっと名雪の約束聞いてくれるはずだから、ね」
　そう言いながら、私は名雪が泣きやむまで、ぎゅっと名雪の身体を抱きしめていた。



　そんなことを思いだしながら、身体を洗う名雪をぼんやりとながめていると、ふと、前から聞こうと思っていた疑問が思い浮んだ。
「名雪。彼氏できたでしょ」
「え？」
　突然の私の言葉に、名雪はびっくりしてこちらを向く。
「彼氏、できたんでしょ」
　私は左手を頬に当てながら言った。
「えっと、うん」
　恥ずかしげに、でも嬉しそうにこくりと頷いた。
「祐一さんよね？」
　祐一さんの名前を出すと、顔を真っ赤にさせながらも、また、こくりと頷く。
「よかったわね、名雪」
　名雪の７年間の想いを知っているだけに、心からそう思った。
「うん！」
　今度はしっかりとこっちを見て、そしてとびきり嬉しそうに頷いた。
　その笑顔を見て、私はすこしの寂しさを感じた。
　名雪が私の元を離れいく。それは自然なことであり、必要なことだけれども、やはり寂しさを感じてしまう。
　その寂しさを紛らわすように、私は言葉を紡ぐ。
「子供は、２人が大学卒業してからにしなさいね」
　一瞬、ぽかんとしていた名雪は、すぐに真っ赤になった。
「なんてこと言うんだよ。そんなこと」
「あら？　してないの？　あらあら、祐一さん、外で他の人としているのかしら。そんな浮気な男の人とはつきあっちゃ駄目よ。名雪」
　笑いながら、冗談のつもりで言った。
「そ、そんなことないよ、昨日の夜だって、いっぱい」
「いっぱい？」
「あっ」
　名雪はさらに真っ赤になりながら口を押さえた。
　恋人たちがそういうことをするのは、至極自然なことで、親が口を挟むことではないと理解はしている。
　だけれども、実際にそういうことを名雪が行っているというのは、小さいながらも衝撃をもって、私を襲った。
　しかし、そんなことはおくびにも出さず、私は微笑みながら言った。
「祐一さんは優しい？」
「うん、とっても優しいよ」
　赤くなりながらも嬉しそうに言う名雪を見ていると、祐一さんでよかったなと思う。が、親としての心境は当然ながら複雑だ。
　祐一さんには、あとで、ちょっとしたおしおきを考えた方がいいかもしれない。
　そういえば祐一さんは、あのジャムを残念ながら苦手にしているみたいだから、それをたっぷりと食べてもらうことにしよう。本当にささやかなおしおきだけれども。
「する事はちゃんとしなさいね。学生のうちだと大変よ。２人の愛の結晶だから、どうしてもと言うなら、止めないけど」
　頬に手を当てながら、苦労した過去の自分を思い出す。
「うん。さすがに、まだ、お母さんをおばあちゃんと呼びたくないよ。わたし」
　名雪の言葉に私は思わず固まってしまった。
　おばあちゃん。考えてもいなかったけれど、名雪に子供ができると言うことは、確かに私に孫ができると言うことで……。
「そ、そうね、まだ、おばあちゃんと呼ばれるのはちょっとね」
　まだ見ぬ名雪の子供におばあちゃんと呼ばれることを想像する。ちょっぴりの嬉しさと、ものすごいやるせなさが渦を巻いた。
「名雪。名雪の子供には、私のことあっきーと呼ばせるようにしなさいね」
　私が思わず言った言葉に、名雪は本当にきょとんとした顔をしていた。



「おはようございます」
　翌朝、学校へ行く支度を終えた祐一さんが、いつものように降りてきた。
「おはようございます。今日はいつもより早いですね」
「ええ、今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めましたし、名雪もすぐ起きましたし」
「それじゃあ、今日はゆっくり朝ご飯が食べられますね？」
「ええ、のんびりご飯が食べられて、歩いて学校に行けそうです」
　そう言っている間に、サラダにヨーグルト、スクランブルエッグをテーブルに並べる。
「おなかは減ってますか？　今日はサンドイッチを作ったのですけど、少し作りすぎてしまったので、いっぱい食べてくれると助かるんですけど」
「秋子さんの作ったサンドイッチなら、いっぱい食べられますよ」
　祐一さんは笑ってそう言った。
「それはよかったです。それじゃあ、いっぱい食べてくださいね」
　お皿いっぱいのサンドイッチとまだ降りてこない名雪の分の朝食をテーブルの上に置き、自分のコーヒーをカップに注いで、椅子に座る。
「いただきます」
　サンドイッチを一口食べた祐一さんの動きが止まった。
　サンドイッチには、残念ながら祐一さんが苦手な、甘くないオレンジ色のジャムが挟み込んである。いっぱい食べるのはきっとつらいことだろう。でもこれはささやかなおしおきなのだ。
「いっぱいありますから、頑張って食べてくださいね。今日は時間もあるようですし」
「……うぐぅ」
　私は祐一さんのこわばった顔を見ながら、頬に手を当て、微笑みながらそう言ったのだった。

FIN

あとがき

というわけで、ロングバージョンです。最初の秋子さんが名雪を捜すところがPS4の段階からあって、救い出そうとして、結局救い出せなかった場所になります。