オリオンの少女

　星空を眺めていると、時が流れていないように感じる。
　ほとんど止まっているように思えるほどゆっくりと動く星々は、それでも、確実に時が動いていることを知らせてくる。

　そんな空の様子を最近は毎晩のように部屋から眺めている。
　そして、今日もアンタレスが天空に昇る。



　最近眠るのが怖い。
　目をつむると、言いようもない不安に襲われる。
　大切な物が失われてしまう。それがわかっているのに止められない悲しさ。
　そして、そんなもの最初から無かったんだって、思っているはずなのに、それを失うことを恐れている自分。


　あたしは、こころを凍らせていた。
　妹という存在を意識の底に押し込み、栞という存在を認識しないようにすることであたしが悲しみに溺れないように。
　でも、凍らせていたはずのこころは、今、ほとんど溶かされていた。
　凍らせていたはずのあたしのこころを溶かしていったのは、皮肉にもあたしの友人たちだった。

　一人は北川君。
　軽薄そうに見える彼だが、実は観察力は人一倍で、あたしがこころを凍らせていた事を最初に見破ったのも彼だった。そのことに彼はなにも言わず、いつも通りに接してくれる。――多分この言い方は正しくない。
　おそらく彼は、あたしに笑いを提供しようと、自ら道化役を買って出てくれている。
　彼とあたしの友人たちとの間で繰り広げられる、どこか間の抜けたやり取りに、鬱積した何かをはき出すことが何度もあった。
　彼がいなかったら、あたしは栞のことだけではなく、自分のことまで凍りつかせてしまったに違いない。

　一人は相沢君。
　といっても、相沢君があたしに何かしたわけではない。でも、彼があたしに与えた影響は大きかった。
　だって、彼はいつのまにか栞と知り合い、気がつくと恋人同士になっていたのだから。
　彼と出会ってから栞は変わった。すべてをあきらめていた彼女は今を精一杯生きるようになった。常に乾いていた笑みを浮かべていた顔は、いつしか穏やかに微笑むようになった。もっとも、その笑顔の向こう側に悲しさを押し隠してはいたけれども。
　彼がいなかったら、栞はあんなに穏やかな笑みをあたしに向けることはなかっただろう。
　そして栞が向ける穏やかな微笑みは、あたしの凍らせていたこころをゆっくりと溶かしていった。

　一人は名雪。
　おっとりでぼけぼけに見える彼女だけど、彼女は本質を見抜く目を持っている。対人関係には特に細かに気を使い、波が起こりかけても彼女が持つ特有の雰囲気と、普段からの人物観察で、あっと言う間に鎮めてしまう。
　彼女が陸上部の部長をしているのは伊達ではない。
　だって、彼女の言葉で、あたしが凍らせていたこころはほとんど溶けてしまったのだから。



　それは、先週の金曜日。ＨＲが終わり、石橋が出て行ってすぐのことだった。
「ねえ、ちょっとつきあってくれないかな？」
　そうそうに家に帰ろうとしていたわたしのことを、名雪が呼び止めた。
　そして、返事も聞かずに、こちらに背を向けて歩き出す。
「悪いけど、急いでいるから」
　そう言おうとしたけれど、何故か名雪の背中に向けてそう言うのはためらわれた。
　仕方なく、あたしは離れていく名雪を追いかける。
　名雪はどんどん歩いていき、たどり着いたのは屋上に続く踊り場だった。
「何で、こんな所にビニールシートがおいてあるんだろうね？」
　名雪の視線の方に目をやると、確かに踊り場の片隅に、折りたたんだビニールシートが置いてあった。
「誰か、ここでお昼でも食べているのかもしれないね」
　そう言いながら、名雪は屋上へと続くドアを開けた。


　屋上は雪に埋もれていた。
　寒風にさらされ、凍りついた雪の上の何の苦もなく名雪は歩いていき、奥のフェンスの前で立ち止まった。
　そして、フェンス越しにグラウンドを見下ろす。
　そんな名雪の様子に、あたしは何も言わずにその後に続く。
　グラウンドでは陸上部が練習を始めていた。
「陸上部、練習してるわよ。いいの？」
「今日は休むかもって、言ってあるんだよ」
「そう」
「うん」
　強い風が吹き、スカートがはためいた。
　しかし、あたしも名雪もそんなことを気にすることなく、ぼんやりと陸上部の練習風景を眺めていた。
「で、どうしたの？」
　冷たい風に身体が冷え切る頃、あたしはそう名雪に切り出した。
「うん。香里、最近辛そうだよね？」
　名雪は陸上部の練習を見続けたまま、明日の天気の話をするかのようにそう言った。
「そう？　あたしはいつも通りよ」
　そうは言っても、名雪とは中学からのつきあいだ。もうとっくに、あたしがこころを凍らせていることはばれていると思っていた。
　しかし、そんなことはおくびにも出さず、あたしはそう言った。
「うん。そう言うと思ったよ」
　そう言ってゆっくりとこちらを向いた名雪の顔は、すごく寂しそうで、泣きそうだった。
「香里がなにも言わないから、わたしはなにも聞かないよ。でもね……。……ううん、なんでもない」
　小さく首を振った名雪の顔にさらに辛そうな雰囲気が加味された。それは、きっとあたしに対して何も出来ないという想いが、名雪にそういう顔をさせているんだろうなと容易に想像できた。
「……名雪」
　だから、いや、だからこそあたしはそれ以上何も言えなかった。今まで名雪に栞の事を言わなかったのは、名雪に心配かけたくなったから。名雪は優しい娘だから、きっと自分の身を削ってでも心配してくれるだろう。
　あたしは、名雪にそんな想いをさせたくなかった。
　重苦しい雰囲気が漂う中、名雪はぽつりと言った。
「香里、王様の耳はロバの耳って知ってるよね」
　あたしが返事をする前に名雪は続けた。
「香里は何でも自分で解決しちゃおうとするから。自分の中にため込んじゃうから。わたしが香里のそういったこと、聞いてあげられればいいんだけど……」
　そう言った名雪の声は、あたしが今まで聞いたどの名雪の声よりも悔しそうで、悲しそうだった。
　陸上の大会で僅差で２位になってしまった時よりも、百花屋で大好きなイチゴサンデーが売り切れだと告げられた時よりも。
「わたしじゃだめみたいだから。でもね、これ以上ため込んだらダメだよ。香里が壊れちゃうよ。北川君でも、祐一でも誰でも良いんだよ。王様の耳はロバの耳だよ」
　名雪の悲痛な声があたしのこころに突き刺さる。
「あたしはいつもどおりだから。でも、心配してくれてありがとう」
　あたしは名雪から逃げ出すようにその場を後にした。
　いや、あたしは逃げ出したのだ。名雪の言葉がこころに痛くて。

　あの時名雪があたしに投げかけた言葉は、しっかりとこころに突き刺さり、そして確実に凍らせていたこころを溶かしていった。
　だってそれ以降、「祐一でも誰でも良いんだよ。王様の耳はロバの耳だよ」と言った名雪の言葉が、ずっと頭の中で回り続けていたから。


　次の日の夜。あたしは名雪の家に電話をかけ、相沢君を呼び出した。
　そして、あたしは名雪の助言通り、相沢祐一という穴の中に叫んだのだ。

「あの子、なんのために生まれてきたの……」



　栞が突然学校に通い始めた。
　もちろん、本当は学校なんかいける状態ではなかった。それでも彼女は、最期くらい普通の女の子として生きさせてほしい。そう、両親に懇願したそうだ。
　あたしはそんな彼女に会わないように逃げ回っていた。
　それは、ちょうど今見ているアンタレス――サソリ座とオリオン座の関係。天にサソリが昇る頃、オリオンは逃げるように地中に隠れ、けして、天空で相まみえることはない。そんなオリオンとサソリの関係のように。


　溶かされてしまったこころは、もう凍りつかせることはできなかった。
　元々大好きな栞を、封印してしまうのはやはり無理があったのだ。
　しかし、今更彼女と会わせる顔もなく、結果としてあたしは彼女から逃げ回っていた。


　栞と和解できないまま、時は確実に進んでいく。
　大きくため息をつき、あたしはもう一つの紅い星を見つめる。
　それは火星。
　アンタレスとそれなりに離れているが、アンタレスと同じように紅く輝く火星は、兄弟のように思える。
　たとえ、アンタレスと言う名前が『火星に対抗するもの』という意味であったとしても。
　オリオンとサソリの関係ではなく、せめて、アンタレスを離れて見つめる火星のような関係になれればいいと思っている。
　でも……。
　あたしはアンタレスをじっと見つめながら、栞のことを想う。
　栞はあたしのことを許してくれるだろうか。
　自分からあんなひどい仕打ちをしておいて、今更許してもらおうなんて、虫が良よすぎるのではないか。
　だったら、今のままでもいいのではないか。
　仲の良い姉妹に戻りたいという気持ちと、今更許してもらうなんて、虫が良すぎるという気持ちが、同じ重さでこころの天秤を揺らしている。
　何か天秤の重さを変えるような、そんな出来事でもあれば、こんな気持ちにならないのかもしれない。
　でも、そんな出来事は起こらない。そんなことが簡単に起こったら、奇跡のようなものだし、奇跡というのは起こらないから奇跡というのだから。
　あたしは二つの紅い星をぼんやりと眺めながら、ずっとそんなことを考えていた。



　眠れない夜がまた明けた。
　栞の体力とあたしの精神を削る一日が始まり、何も変わらぬまま星空を見上げる。そんな一日になるはずだった。
　しかし、その日、事件は起こった。他の人から見れば何でもない、ささやかな出来事だったはずだ。

　それは、名雪の彼女にしてはらしくない強引な誘いから始まった。


「今日は部活がお休みなんだよ。だから、甘いものでも、食べに行こうね、香里。今日は、つきあってくれたら、何だっておごっちゃうよー」
　５時間目の休み時間。突然あたしの目の前に立った名雪は、にっこりと笑ってそう言った。


「おーいっ、名雪」
　無理矢理に連れて行かれた百花屋で、偶然にも栞と一緒にいる相沢君に声をかけられた。


「みんなで一緒に食事できて、本当に嬉しかったです」
　夕暮れの空の下、本当に嬉しそうな顔で、栞はそう言った。
　みんなの中には、あたしも入っているというのに。


　そう、その出来事は、他の人にとっては本当に些細な出来事かもしれないが、あたしにとっては本当に大きな出来事だったのだ。

　こころの天秤が傾くくらい。


　だから……


「余計なお世話じゃないわよ……だって、栞は……あたしの妹なんだから……」
　相沢君の彼女という名雪の言葉に、恥ずかしそうにうつむく栞を見つめながら、あたしはその言葉をはっきりと口にした。


　そして……


　あたしは栞の前で泣いていた。
「あたしには妹なんかいない。あのときから、ずっとそう思って、行動してきた。大好きな妹がこの世からいなくなるがこんなにつらいのなら、その存在そのものをなかったことにすればいいと。なのに……すごくひどいことしてるのに、どうして栞は、あたしのことをお姉ちゃんと呼んでくれるの？」
「私がお姉ちゃんのことをお姉ちゃんと呼ぶのは、それは、私が、お姉ちゃんの妹だから。そして、私が、お姉ちゃんのこと大好きだから」
「こんなあたしを許してくれるの？」
　あたしの問いかけに、栞は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、本当に嬉しそうにこっくりと頷いた。


　そして………


　今日も、あたしは夜空を見上げていた。
　この時間はまだ、オリオンが天空に輝いている。
　そのオリオンのリゲルとベテルギウスを結んだ上の方に、双子座がある。
　その天に浮かぶ兄弟を見ながら、あたしは栞のことを考える。
　もう、残された時間は少ない。
　オリオンとサソリの関係ではなく、アレスとアンタレスの関係でもなく、カストルとポルックスのような、本当に仲の良い姉妹として歩いていこう。
　栞の大好きなお姉ちゃんとして、最後まで栞と共に歩こう。
　あたしは双子座を見つめながら堅くそう誓った。



　翌朝、私は玄関の前で待っていた。
　家の中で栞が賑やかに準備しているのがここからでも聞こえる。
　今日はいい天気だ。風が少し冷たいのが難点だが、空は綺麗に青く染まっている。
　青い空が私のやろうとしていることを後押ししてくれている、そんな気がした。

　それにしても……。
　あたしは眉をひそめて、腕時計で時間を確かめた。そろそろ行かないといい加減危ない時間だ。
　そう思っているとがちゃりとドアが開き、いってきまーすという、栞の元気な声が聞こえた。
　行ってらっしゃいという母親の声も、追いかけるように聞こえてきた。

　「少し遅くなっちゃったな」
　靴を履きながらそうこぼしている栞に、私は声をかける。
「遅い。いつまで、待たせる気よ」
「えぇ！？　お姉ちゃん、先行ったんじゃなかったの？」
　心底びっくりしたという感じで、聞き返す栞。
「待ってたのよ。一緒に学校いくんでしょ？　遅刻しそうになっても走るわけに行かないんだから、もう少し早めに準備しなさい」
「一緒に……」
　私の言葉に、固まる栞。
　でも、その言葉の意味を理解したとたん。栞は目に涙を浮かべて頷いた。
「それじゃあ、いい加減行くわよ」
　そう言って、あたしはすたすたと歩き出す。
「わ、まってよーお姉ちゃん！」
　栞は慌てて、私を追いかけぎゅっと私の腕に抱きついた。
「こら、そんなコトしたら、歩きにくいでしょ」
「いいの。今日はこれじゃなきゃ、いや」
「しょうがないわね。恥ずかしいから今日だけよ」
「えー」
　栞が嬉しそうに不満げな声を上げる。
　栞のその顔を見て、くすくすと笑える自分がいる。

　ぎくしゃくしていた、昨日までのあたしたちはもういなかった。
　一瞬で昔と同じように、仲のよい姉妹に戻れた事に感謝しながら、あたしたちは、雪の通学路を歩いていった。

　冬の太陽がいつもよりほんの少し、暖かく感じた。


FIN

あとがき

どうも、初めての人は初めまして、２回目以降の人はお久しぶりです。琴吹です。
今回は、お題提示前に考えたことはありませんでした。第５回終了後すぐにお題が発表されたからです。
で、今回のお題が「火星」。今までいくつか、あったお題のなかで、最大級に難しかったです。
いくら考えても、火星とKanonは結びつかなくて。
火星と言えば、戦いの女神のイメージで、戦いの女神のイメージというなら、香里か舞でいこうかなと考えました。
じゃあ、火星――アレスの神話について調べてみようということで、出てきたのが、アンタレス。
アンタレスと言えばサソリ座。サソリ座と言えばオリオン座。
という流れで、今回のお話はできました。最初考えていたのは、★矢のパロディで香里をサソリ座の聖闘士、 祐一をオリオンの聖闘士にして、一騎打ちをさせるという物でしたが、うまくまとまらなくて、今回のお話になりました。

今回のお話は、Kanon本編、栞シナリオ攻略中のお話。具体的には、1999/01/29　AM4:30頃から、翌30日　AM0:30頃までのお話になります。

今回の話のために太陽系シミュレータを導入して、星の位置を確認したりした関係で、妙に細かい時間設定になっています。

今回やりたかったことは、名雪たちは見えないところで頑張っている。
友人関係を続けてきた、名雪と北川が、香里のことを放って置くわけがない。
きっといろいろなアプローチをしているに違いない。
との考えから、こんなお話になりました。
北川とか、画面にも登場させることができなかったので、うまく行ってるかは微妙なのですが。


ここまで、読んでいただき、ありがとうございました。


改稿しました。具体的に言うと玄関部分が丸々追加されています。
PS4参加時は火星と星にこだわったために、玄関のシーンが始まる前で終わってたのですが、あとで読み直すと、ちょっと物たりないいと感じたので。
この改稿がどういう結果になるかわかりませんが、個人的には良い結果になると信じています。

改めまして、ここまで、読んでいただき、ありがとうございました。