ただ一度の命

　
　俺は逃げ回っていた。ただひたすらに……。
　巨人は灰色の棍棒を俺に向かって振り下ろし、俺をペチャンコにする腹づもりらしい。
　バスン！　バスン！　と、すごい勢いで振り下ろされる棍棒。その棍棒を俺は右へ左へジグザクに走り、辛うじてそれを避けていた。
　しばらく逃げ続けていると光明が見えた。巨人の手が届かないような隙間が、目の前に現れたのだ。後２秒も走れば、そこに逃げ込める。後もう少し！　そう思った瞬間、バスン！　という大きな音がして、辺りが暗転した。

　２秒。いや、実際はもっと長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。気がつくと、巨人は白い布のような物を俺にかぶせ、捕らえようとしているところだった。その布がかぶせられる寸前、俺は再び駆け出した。
　巨人は俺の息の根を完全に止めたと思っていたらしく、動き出した俺を見て、轟くような叫び声をあげると、近くに投げ捨ててあった灰色の棍棒を手に取り、再び俺に殴りかかってきた。
　しかし、俺ももうさっきみたいな失敗はしない。一気に目指していた隙間へと駆け込んだ。
　巨人はバスンバスンバスンと大きな音を立てながら、隙間の入り口を無闇矢鱈に叩いていたが、しばらくすると諦めたのか、やがてその音も収まった。
　当面の危機が去りほっと一息つくと、俺は今までのことを改めて思い出していた。
　俺がこの場所に閉じこめられてから、一週間が過ぎていた。
　今までは、奴らに気づかれないように、辺りが暗くなってから食い物を探したりだとか、どこかに脱出できる場所はないかとか動き回っていたのだが、今日はあまりのひもじさに、つい、辺りが暗くなる前に行動を起こしてしまった。そして、このざまというわけだ。
　しかし、何とか逃げ延びた。後はまた辺りが闇に包まれたら、別の場所に移動すればいい。巨人に喰らったダメージもまだ抜けていない。今はただ、身体を休めよう。そう思って、俺は壁にもたれかかった。
　その時、隙間の入り口に何かがぬっと現れた。その何かには、不可思議な文様と赤い鶏の絵が描かれていた。
　ブシュッーという音ともに、霧状の何かが猛烈な勢いで、その何かから噴き出される。想像を絶するような噴射が襲い、俺は思いっきり壁に叩きつけられ、その衝撃にその霧状の何かを吸い込んでしまった。
　目と喉が焼かれたように痛み、しばらくの間俺は動くことも出来ず、その場で咳き込むことしかできなかった。
　どれだけの時間が経ったのだろうか。俺が落ち着いた頃にはもう、その鶏の絵の描かれた何かは目の前からいなくなっていた。
　今のは何だったのだろうか？　そう思った次の瞬間、呼吸が突然出来なくなり、喉が、胸が焼け爛れたかのように痛みを訴える。
　俺は苦しさのあまり、辺りをのたうち回っていた。
　気がつくと俺は外に飛び出していた。そこには満足そうな顔を浮かべた巨人が、俺を見下ろしていた。
　巨人は俺を見ても、もう攻撃しようとはしなかった。俺の身になにが起こり、そしてどうなるかを知っているからだろう。
　気が狂いそうなほどの痛みが襲う中、俺の意識は次第に遠くなり、そして、辺りが闇に包まれた。


　「お父さん、どう？　殺った？」
　「ああ、やっぱり殺虫剤はよく効くな、しばらくのたうち回っていたけど、すぐに動かなくなったよ」
　「いやね、ゴキブリって。１匹見つけたら３０匹はいるって言うじゃない……。それ、ティッシュにくるんでゴミ箱に捨てといてね」
　「はい、はい」

ＦＩＮ

あとがき

この作品は大学時代に書いたお話をシアン大賞投稿のために修正したものです。
タイトルの「ただ一度の命」とは読んでもらえるの一度きりのネタという意味でこのタイトルを付けています。
気に入っていただけたら幸いです。

琴吹　邑