閉ざされた扉・開かれたカーテン

　「ただいま……」
（お帰りなさい。祐一さん）
　いつも当たり前に返ってくる、秋子さんの声はない。
　玄関には名雪の靴が揃えて置いてある。
　家の中に入り、キッチンへ向かう。
　そこは、今朝俺が朝食を食べたままの状態。
　まるで時が止まってしまったかのように、何も変わらず静かだった。
　チラリと二階に目をむけるが、居るはずの名雪の声も無い。
　リビングに行き、留守番電話のボタンを押して、設定を解除する。
　メッセージ件数は、０件だった。
　しばらくのあいだ電話をじっとを眺めていたが、電話は鳴らなかった。
　電話がないということは、変化がないということ。そう言い聞かして、電話から目を離した。
　小さくため息をつき、そこから離れ階段を上り、部屋にいるはずの名雪に声をかける。
「名雪。ただいま」
　しかし、期待した名雪からのおかえりの声はなかった。
「名雪。昨日から何も食べていないんだろ？　食べないとおまえまで、参っちゃうぞ」
　ドア向こうの名雪からは、相変わらず沈黙しか返ってこなかった。
　俺は再び、小さくため息をついた。
　部屋着に着替えて階下に降りる。秋子さんという主の居ない現在、いつも温かく居心地のいいお茶の間やダイニングは、寒さと沈黙が支配していた。
　秋子さんが居ない水瀬家は、まさに、火が消えてしまった。そんな状態だった。
「こういう時に、あいつがいてくれたら、少しは気が紛れるだろうに」
　ちょっと前に居なくなったイタズラ娘の事を思い出しながら、ひとりごちる。
「さて、飯の準備をしないとな」
　秋子さんは、居ない。名雪は、ショックで引きこもっている。
　秋子さんの事も心配だけど、名雪の事も心配だ。
　秋子さんに関しては俺は祈る事しか出来ないが、名雪にしてやれる事は沢山ある筈だ。
　だから、俺は、店屋物やコンビニの弁当を用意するのではなく、自分で名雪のためにご飯を作る事にした。
　と言っても、普段料理なんか全然しない俺に作れるのは、カレーくらいしか無いけど。
「よし！」
　そう声に出して景気づけると、
　俺はキッチンに向かい、家にあるものを確認した。

　幸いな事に、カレーに必要な材料は全部揃っていた。
　そしてもっと幸いな事に、カレールーが見つかった。
　秋子さんの事だからスパイスから、作ることも有りうると思っていただけに、ルーが置いてあってホッとした。
　これなら出かける事なく、料理を始める事ができそうだ。
　俺は、カレールーの箱の裏に書かれているレシピを一読してから、早速料理に取り掛かった。

　冷凍庫の中にあったなんかの肉をレンジで解凍し、食べやすい大きさに切る。
　そのあと、人参、玉ねぎ、ジャガイモを適当な大きさに切って、鍋に薄く脂を引き、肉の色が変わるまで炒める。
　肉が炒まったら、先ほど切った野菜を投入し、野菜の表面に焦げ目がつくまで炒める。
　焦げ目がついたら、野菜から数センチ上に来るまで鍋に水をいれる。
　鍋に入れた水が沸騰するまで待ち、沸騰したらカレールーを投入する。
　カレールーを投入したら、焦げないように火を弱くし、焦げないようにかき回し続ける。

　ここまで来ればひと段落。
　何とか失敗無くできて、ホッとした時、不意に手首から、５センチくらいのところに痛みが走った。
「いっ！」
　慌てて手を引っ込め、その箇所を見る。
　そこには、赤い筋が通っていた。
　どうやら、ぼんやりと鍋をかき回しているうちに、うっかり鍋の縁に触ってしまったらしい。
　俺は小さく舌打ちすると、すぐに蛇口を捻り、そこに冷水をあてた。
　北の国の冬の水は、あっという間に俺の体温を奪って、手の感覚はものの数秒でなくなった。
（大丈夫？　祐一。もう、ぼんやりしているからだよ）
（あらあら、大丈夫ですか？　祐一さん。すぐにやけどしたところを冷やしてください）
　いつもならば、普通にかかるはずの声がかからない。
　そのことがこんなにつらいとは思わなかった。

　結局、作業の手際の悪さと煮込みに時間をかけたせいで、時間は２１時を回っていた。
　できたカレーをお皿に盛り、名雪に持って行くため、水の入ったコップと一緒にお盆に乗せた。
「少しでも食べてくれるといいんだけどな」
　そう一人呟いて、階段を上る。
「おい、名雪」
　ドアをノックしながら話しかける。
「晩飯持ってきてやったぞ。腹、減ってるだろ」
　相変わらず返事は帰ってこない。部屋の明かりも消えている。
「おい、開けるぞ」
　断ってから、ドアノブを回す。
　しかし、ドアは開かなかった。
「おい、名雪」
　再び名雪を呼んだが、返事はなく、ドアが開く気配はなかった。
「晩飯、ここに置いておくから」
　俺は小さくため息をついて、固く閉ざされた部屋の前をあとにした。
　自分で作った晩ご飯は、それなりに美味しかったが、秋子さんの作ったものにかなうものではなかった。
　そして何より、一人で食べる晩ご飯は味気なかった。

　翌日。
『朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜』
　冷たい部屋に、録音された名雪の元気な声だけが虚しく響いていた。
　体を起こしてカーテンを開けると、外は雲ひとつない青空が広がっている。
『朝〜、朝だよ〜。あ…』
　ため息をついて、目覚ましを止める。目覚ましの名雪の元気な声を聞いているのがつらかった。
　部屋から出ると静かな廊下。窓から差し込む光が、廊下に暖かそうな日溜まりを作る。
　いつもなら感じられる、秋子さんの気配が感じられない。廊下にできている日溜まりが、なんだか作り物のように感じられた。
　また、ため息をついて、名雪の部屋の前に立つ。
　少し傾いてぶら下がっているドアプレート。静かな部屋。
　その前に、昨日と同じままのお盆が置かれていた。
　中身もそのまま、まったくの手つかずで残っている。
「……まさか、本当にずっと部屋から出てないのか……」
　ドアノブを回しても、扉は開かない。
「おいっ、名雪っ」
　ドン、ドン…。
「名雪っ」
　ドン、ドン…。
「名雪っ！」
　このままじゃ、名雪は本当に倒れてしまう。話をして、ご飯を食べさせる。
　でも、昨日からいや、秋子さんがいなくなってから、この扉は固く閉ざされたままだ。
　だから。

　ドン、ドン…。
　ドン、ドン…。
「名雪っ！」
　ドン、ドン。
　ドン、ドン。
「名雪っ！」

　今の俺にできること。それは、ただひたすらドアを叩き続け、呼びかけ続けることだけだった。

　ドン、ドン、ドン！。
　ドン、ドン、ドン！。
「名雪っ！」
　ドン、ドン、ドン、ドン！！。
　ドン、ドン、ドン、ドン！！。

「……やめて」
　しばらく、そうやって呼びかけを続けていると、部屋の中から聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さな声が、聞こえた。
　力のない声……だけど、間違いなく名雪の声だった……。
「……お願いだから……やめて……」
「お前が落ち込んだって、仕方ないだろ」
　その言葉にやはり返事はなかった。
「お前まで倒れたら、秋子さんが戻ってきた時、絶対に悲しむぞ」
「……ごめん……祐一……ごめん」
　今にも消えてしまいそうな声に、涙に濡れている声に、俺はぐっと唇をかみしめた。
「名雪……」
　小さく呟いたその声に、やはり返事はなかった。

　学校に行き、ただただ時間を浪費する。
　ゆったりと流れる時間が、青く輝く空が、白く柔らかそうな雲が、今の俺には作り物みたいに感じられた。
『……ごめん……祐一……』
　ただ、名雪の今にも消えてしまいそうな声が、ずっと頭の中で響いていた。

　次の日。その日は、朝から雪だった。
　窓の外には灰色の雲。そこから、絶え間なく白いものが舞い落ちていた。
　俺は、私服に着替えて、名雪の部屋の前にいた。名雪に借りていた目覚まし時計を持って。
　コンコン。名雪の部屋をノックする。
「……名雪」
　しばらく、返事を待ってみたが、やはり帰ってきたのは沈黙だけだった。
「俺は、今日一日、あの場所で待ってる。ずっと、待ってるから……」
　返事のない部屋に、一方的に用件だけを伝える。
　昨日一日考えて、出した結論。それを実行するために。
「それと、この目覚まし時計……。名雪に返すから」
　指定の時間に目覚ましが鳴ることを確認して、ゆっくりと時計を名雪の部屋の前に置いた。
「じゃあな、名雪」
　結局、名雪から帰ってきたのは沈黙だけだった。

　雪が降っていた。雪は、次第に強くなっていく。
　傘を差して、学校に向かう生徒たち。
　その中を、俺は傘を差さず歩いていた。
　そして、本来なら分かれるはずのない場所で、学校へ向かう生徒たちと別れ、駅へと向かう。
　７年前の、約束の場所。駅前のベンチ。
　そのベンチは、半分以上雪に埋もれていた。その雪を払いのけ、少ししめった木のベンチに腰をかける。
「まるで、あの時みたいだな…」
　ほんの、３週間ほど前、俺は、この場所にひとりで座っていた。
　大雪の舞う中、その時は珍しかった光景を眺めながら、名雪が来るのを待っていた。
　吐く息が真っ白に染まるこの街で、数年ぶりに訪れたその場所で……。
「結局、２時間以上も待たされたんだよな……」
　そして、１本の缶コーヒーを貰った。確か、遅れたお詫びだった。
「２時間遅れでも来てくれればいいんだけどな……」
　小さくため息をつく。その小さなため息すらも、白い煙となる。
「届けばいいけどな……」
　でも無理かもしれないなと、思っている自分がいる。
　昨日の夜の出来事を思い出す。
　暗闇の中で、膝を抱えて座っている名雪。
「……祐一、奇跡って起こせる……？」
　わかっている答え。返せない言葉。
『奇跡ってね、そんな簡単に起こるものじゃないのよ』
　そう言ったのは誰だったか。
「……ダメ……なんだよ……わたし、もう笑えないよ……笑えなくなっちゃったよ……わたし、強くなんてなれないよ……ずっと、お母さんと一緒だったんだから……」
　二人にわだかまる沈黙の中、名雪の中から絞り出すように出た言葉は、絶望の言葉だった。
「奇跡……か」
　あの時返せなかった言葉は、もう名雪の元においてある。後は、その言葉を名雪がどう思ってくれるかだ。
　俺はただ、うつむいて、その刻を待った。名雪が来てくれるその刻を。


　太陽が昇っているかそうでないかは雪が降り続く天候のなかでもはっきりとわかる。
　雪を舞散らす厚い雲の向こうにいるはずの太陽は、やがて地平に沈み、薄暗かった周りは、闇に閉ざされる。その闇をぼんやりと薄く街灯が照らす。
　いつ頃だったか、終電が通り過ぎ、駅は今日の役目を終えて眠りについた。
　駅前通りも、車通りは絶えている。
　当然辺りに人影はない。
　鋭く通り過ぎる風の音だけが聞こえ、音もなく舞い踊る雪は、目の前に白いカーテンを形作る。
　そんな中、俺はコートの雪を払うこともなく、ただじっと、待ち続ける。
　今日が終わるまで、ずっと……。



　そして。
　時計の針が。
　ぴったりと重なり。
　約束の。
　今日という日が。
　終わった。



　言葉は届かなかった。
　俺は、好きな人の支えになることすらできなかった。
　すでに寒さで感覚のなくなった手を握りしめる。
　結局、何もできなかったという事実。名雪は来なかったという現実。
　大きくため息をつく。吸い込んだ空気は痛いくらい冷たかった。
　虚無感に抱かれ、ただぼんやりと降りゆく雪をみていた。
　雪は何もかもを飲み込むかのように、しんしんしんと降り続け、目の前を白いカーテンで閉ざす。
　約束の今日は過ぎてしまった。
　でも、あの時みたいに、二時間遅れてくるかもしれない。
　名雪はねぼすけだから、目覚ましが鳴ってから、ちゃんと起きるまでに時間がかかるし。
　ぎゅっと歯を食いしばり、折れそうになる心をたておなす。
　だから。後２時間。後２時間だけ。わずかな可能性にかけた延長戦。
　そのわずかな可能性を信じたかった。
「名雪……」
　小さく、呟く。
ふと、その声に反応したかのように、白いカーテンが揺らめいた。
「学校、さぼってる人発見」
　白いカーテンの向こう側に、人影がみえた。
　延長戦は、自分が思っていたよりも早く終わった。
「……お前だって……そうだろ……名雪……」
　白いカーテンから出てきたのは、俺がずっとずっと待っていた人物。
　待ち望んでいた人物だった。
「……祐一……雪、積もってるよ」
　名雪は３週間ほど前に俺に言った言葉と同じ言葉を言った。
　頭の上に、雪をのせて、目には、大粒の涙をたたえながら。

ＦＩＮ

あとがき

どうも、初めての人は初めまして、２回目以降の人はお久しぶりです。琴吹です。
２次締め切りにうっかり遅れました。間に合ったのに、週末と勘違いしちゃいました。
すみません。
今回作品のクォリティはあまり高くないかなという感じです。
シナリオ中の祐一視点はゲームと丸かぶりしてしまうので、あまりよろしくないと言うことがよくわかりました。
今回の「やけど」というお題も言葉から広がりがなくて苦労しました。結局。本編の再構成に無理矢理火傷のっけった。そんな感じのお話になりました。

ver1.00　2010/09/01　完成